最上川には処々に鯉群が居るけれども、鯉の話をするものは先づ其処のことを話すのが常である。川前といふ村から大石田へ移転して来た、井刈安蔵といふ人が居た。普段は田舎骨董などを売買してゐるが、魚を捕へることが好きで、またその方の巧者である。ある日楯岡へ行つた帰りに袖崎駅で下車して大石田へ向つて歩いて来ると、ヘグリに近い小菅村に沿うた最上川に鯉の群が遊泳してゐるやうな気配を感じた。これは所謂『勘』といふ奴で、波だつ紋の具合で直覚したといふのである。安蔵は大石田の家に帰り、昼食を早々に済ませて、投網舟で行つてみたところが、果して鯉がゐた。二尺七八寸ぐらゐの奴が四尾ばかり先行し、同じぐらゐ大きい七八尾がそれにつづいてゐた。安蔵がいきほひ込んで網を打つたところが、手答があつて、実に大きいのが一尾とれた。あとは前に言つた洞窟に隠れてしまつたといふのである。
『さうだなあ、五尺はあつたな、十五貫はあつたべな』などと安蔵は談つたさうである。

【歌風】歌風は服部躬治より出でて、後、正岡子規系統に移つたのであるから、同じ新派でも、むしろ萬葉派と看做すべきものである。ただ彼は國文學者であると同時に、民俗學者であるから、歌風も自らその色彩を帶び、人情の機微、人事の複雜を詠ずるを以て得意としてゐる。「昭和職人歌合」の如きは、その特色の一端を示すものであり、又同じ萬葉派でも「古今」「新古今」をも取入れ、複雜な一家の歌調を成してゐる。これ彼が赤彦・千樫・憲吉等以外に、一領域を有してゐる所以である。

 明治三十九年七月はじめから法医学教室の講堂で先生の心理学講義があって、七月十一日に終了した。その時私ははじめて先生の講義を聴いたのであった。また先生の助手として森田正馬さんなどが、その席にいて、私は西洋語の綴方を訊ねたりした。私はもう医科大学の二年生になろうとしており、父上が独逸から帰って精神病医として立っていたのであるから私が先生の門に入る機縁はそのあたりから形成されていたのである。私は学生として先生の講筵に出席している間に『精神病学集要』・『精神病学要略』・『精神病鑑定例』・『精神病検診録』・『精神病診察法』等の書物を知り、傍ら『柵草紙』の文章や医学雑誌(『中外医事新報』)に連載された徳川時代の医学という論文などを読んで見たりした。

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